「恋」というものが小説の題材になるのは、
不思議な強い力を引き出すようなものを持っていれば、
あまりに愚かな行動を引き出すようなものまで持っているところかもしれない。
「恋」のなりたちも様々。
哀れに思うところから芽生える「恋」もある。
夏目漱石『三四郎』に出てくる広田先生は、漱石自身がモデルとも言われるが、
その広田先生が三四郎や美禰子などに
「"Pity's akin to love" を日本語に訳すとどうなる?」訊く場面が出てくる。
それに対して、そこにいた4人の一人、与次郎が答え
「かわいそうだたほれたってことよ (可哀想だ とは惚れたということ)」
と答え、広田先生はちょっとバツ悪そうにするが、
一同には非常にウケるシーンが出て来る。
この言葉のように、「ちょっと可哀想だな」と思ったことがきっかけとなり、
「恋」に発展することがある。
だけども、そんなところから思わぬ陥穽(かんせい)に落ちてしまうこともある。
『アーサー王物語』は中世のイギリスの騎士道物語だが、
そこに、恋の陥穽に落ちるようなストーリーが出て来る。
この場面に登場するのは妖精であるヴィヴィアン。
魔術師マーリンは何もできないで苦しんでいる湖の乙女という異名をもつ
妖精ヴィヴィアンを可哀想に思う。
そして、ついには魅かれてしまい、彼が持つ妖術の極意のすべてを教える。
これが彼の一つの絶頂期でもあるが、
ヴィヴィアンの方には嫌悪感が募り、ついに魔術師マーリンを
彼から得た魔法で、森やガラスの空中楼閣に監禁してしまう。
そして、この妖精ヴィヴィアンは
他の男(ペレアス卿) に魅かれて行くという話。
可哀想から始まった恋は、無惨な結末を迎えることになる。
悲しい哉、愚かな「恋」は泪だけでは終わらない...